
メガネも、

二人。
今回の話で一番気になるのは、
久野幼女がちゃんとねこパンにはきかえてたのかなってことだ。
そこについて言及しなかった吉田脚本は片手落ちと言わざるを得ない。
前回と同様、コンテの段階で削られてしまった可能性も捨てきれないが。
そんなわけで可能性がどうたらのシュレディンガーがこうたら、
シュレディンガーのパンツについてはかつて綴った記憶があるゾ。
同じくはいてない系のアニメ感想で、このネタを思いついたのは確かだ。
つまり今回の答えはそこに隠されてたのだ。
久野幼女がねこパンをはいてるかどうか、
見えもせず語られもしないのは箱の中に封じられた状態と同義。
あえて触れないことで想像の余地を残し観測者に希望を与える、
我々には自由な解釈が許される…言うなれば「委ねる」演出だったわけだ。
そんな配慮にも気づかず不平ばかり、
今となっては己の浅薄にただ恥じ入るばかりである。
パンツは心にて愛でるもの、京アニ流から学ぶパンツ道。
にほんブログ村
スポンサーサイト